西大寺の爺、町内・会を書く。

町内会、自治会の悩み多き日々。地域コミュニティ崩壊の瀬戸際。岡山市東区西大寺。saidaiji+jijih

宗教性のある行事と町内会の距離感…。

岡山市町内会ハンドブック>

岡山市が町内会の性格をどう位置付けているか最初に確認します。
岡山市町内会ハンドブック」(第3頁、岡山市連合町内会、岡山市市民協働局市民協働企画総務課、2018年3月)では、町内会を「(略)地縁に基づいて形成された団体」とし「スポーツや伝統芸能保存のように活動の目的が限定されている団体(略)」はこれに該当しないと明示しています。あわせて「町内会は、地域に住む様々な人々で構成されている事から、署名活動や募金活動を行うにあたっては、個人の思想信条を尊重し、強制することがないよう(略)」と求めています。

政治信条・信仰の自由など基本的人権をあてはめて考えるとわかるのではないだろうか、と爺は「ハンドブック」を読みました。

<町内会は任意組織>

町内会は、権利能力なき任意団体(社団)と一般的に位置づけられます。
www.city.okayama.jp
1991年に地方自治法が一部改正され、町内会や自治会は条件を満たすと一定の権利能力を有する資格「法人格」を得ることが認められました。例えば、不動産登記などを町内会名義でできるようになります。この法人格をもつ町内会を「認可地縁団体」と言います。それでも「任意組織」という基本は変わりません。

「町内会は、地域に住む様々な人々で構成されている事から、署名活動や募金活動を行うにあたっては、個人の思想信条を尊重し、強制することがないよう(略)」は大切な箇所だと思います。

<地域行事と宗教行事の境目>

爺が所属する町内地域には、神社に深く関係し、宗教と無縁とは考えにくい「行事」があります。一方、同様行事について「地域行事」「伝統行事」という言い方で、「宗教性」がないという言説もあります。爺は、人によって宗教と行事の境目は異なるのだろうと考えます。それ自体を否定する必要はありません。

ネット徘徊してましたら以下のような記事がありました。

人類は“死”を発見した種だから、信仰色を持つ行事を続ける。
 人がつくる行事というのは面白いもので、信仰から発したものは、いずれ娯楽の要素を持ちはじめ、娯楽からはじまったものは、必ず信仰に行き着きます。縄をなうように、自然と両方の要素を持つようになっていく。「壬生の花田植」も、最初は田の神様に感謝するという名目のもと、土地の大地主が大判振る舞いをして、「今日は飲めや食えや」と農民を喜ばせる娯楽イベントでした。それが昭和51年に国の重要無形民俗文化財になった途端、近くの壬生神社でお祓いをするようになって、宗教的な要素が加わったんです。

 一方、厳かな行事は、少しずつ楽しい要素を足して参加者を増やすなど、変化させていきます。楽しくないと、続きませんからね。そういう意味では、今、地域でおこなわれている、様々なまちのイベントも、いずれは宗教性を持つようになるかもしれません。たとえば震災で亡くなった方への慰霊というテーマを持たせたり、城下町の祭では戦国武将の顕彰(けんしょう)※とともに、みたまの供養という要素を持たせたりと、霊的なものと結びつけるようになっていく可能性は大きいです。

※顕彰=功績を認め、その業績を一般の人に周知すること。
出典:「地域行事」の“本質”を知って、人間ならではの“本能”を受け継ぐ。

信仰起源であれば娯楽性を、娯楽起源であれば宗教性を、いずれ備えるようになる…という説明です。結果的に宗教とは無縁ではない…、宗教から離れられないと…。無信仰、他宗教の人たちの存在はどう評価されることになるのか…爺はチョット考えこむ…。

「地域」「伝統」行事の宗教性を一律に見定めるのは難しそうです。宗教性の有無をどう見るかは個人の世界観に大きく依存することになりそうです。

西大寺のはだかまつり(会陽)は、仏教由来「修正会」行事です。でも、どこかで宗教行事と地域行事の境目があるのだろうと思います。単に宗教行事であるなら、実行主体が参加者の安全を担保したらいいじゃん、なんで警察が境内で警備本部?、などと思う人がいても不思議はありません。とある人によると、本堂御福窓(ごふくまど)から宝木投下までが宗教行事、との名解説もある、とのことでした。
www.saidaiji.jp

爺が所属する町内会では、宗教団体などから回覧依頼があったときは、事務作業として宗派を問わず扱う、ということを原則に考えています。どこかはOKでどこかはNOとなるとややこしいです。判断は個人・各戸におまかせし、情報提供の事務作業をさせていただくということで、さまざまな立場の方のご理解・ご容赦をいただけるのではないかと…。

それにしても、日程を大きく狂わされた今年の「おとうや」です。昨年春の予定・見通しと大きく異なった「原因」を検討することで、今後につながる何かを見つけることができるのではないかと想像します。日程狂いの原因は、単に関係するコミュニティからの離脱願望を実現するためのサボリ行動なのか…。それなら他者に対する態度・社交・儀礼・近所付き合いとしての立ち位置という宗教とは切り分けて考えなければならない問題が各所から指摘されるのも頷くことができます。

さて…。